【ネット】境界線無き文化圏の覇権。ひろゆき神話の呪い。
以前のエントリーで書いた話。ネットコミュニティにおける2ちゃんねるの有用性について。
大学の授業で、適当にコメントするよう先生に仰せつかって、考えをまとめようと思ってたのだけど、筆不精がたたって前日になってしまった。
前段のエントリーはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/tkyoukey2/20120601/1338560835
先生は、2ちゃんねる擁護的な立場の方なので、あえて、反2ちゃん派の立場でいろいろ物を考えたのだけど、その参考になる知見を得たのがこの動画。
2ちゃんねるが内包する構造が、コミュニティを形成すること。そして、そこで行われる特定の文脈に沿った発言が、これまでの既定の枠に囚われない柔軟で新鮮な文化を生み出すという点において、先生の言う「神話」と「口承」的なコミュニケーションは強い機能を有しているのは事実だと思う。
その上で、2ちゃんねるの神話が生み出した弊害が、根強くネットの社会、ネットの中でのコミュニケーションに影を差してはいないだろうかと感じる。
2ちゃんねるが生み出した神話、2ちゃんねらーがすがる神話。それはひろゆきを偶像とする神話だと個人的に思う。「嘘を嘘を見抜けない人間に」に始まり、斜に構え、何事もネタ的な解釈で分解するというメンタリティがひろゆきから神話へと受け継がれ、そのマインドは2ちゃんねるを席巻し、そして、ネットの境界線が存在しないと言う特性を生かし、他のネット文化圏にも少なからず影響を及ぼしている。
加えてもう一つ、前述の特性、何事をもネタにし貪欲に消化していくという傾向が、集団性と匿名性が助長すると思われる暴力性と、相まることで生み出されたの「祭り」「炎上」という行為がある。
これも、2ちゃんねるの負の影響の一つであろう。
ここからは以前のエントリーの援用だが、
『実社会の問題はどこまで行っても不可避で直視しなればならない問題だ。そこに対し、これまでのネットの文化は、一定の意見を呈す程度にしか効果を発揮できない側面があった。どこまで行こうとも、責任を逃れる仕組みが機能していたからだ。
Facebookに存在する私は、確かに何処かに暮らし、何処かで勤める、存在のある私でしかありえない。そういう私でなければ、新たな可能性をネットに見ようとするアーキテクチャで。その可能性は、これまでのネット文化との比較で是非を論じるべきものではないと僕は思う。』
という事を僕は考えている。
実社会における様々な諸問題にポジティブに働きかけることのできるツール。雑多で煩雑な手続きを簡便にするツール。ネットの活躍の場はこれからも広がっていくし、そうでなければならないとも思う。その為には2ちゃんねるのマインド、その強固なマインドを生み出す、アーキテクチャ(集団性、匿名性、ひろゆき神)が弊害として立ちはだかる事もあるだろう。
「民度」という言葉はあまり使いたくないのだけども、集団で生み出された力は、社会正義等に向くわけでもなく、ある種の弱い者いじめのような構造に向けられている現状だ。
ネットにおける言説、文化に、もっと公共性が担保されている物が必要ではないかと思う。
そのために必要な事はリテラシーを充分に備え、公共心を備えたユーザーを涵養していくべきか。それが出来るに越したことは無いのだけれども、個人的にはそれは難しいだろうと考える。誰がどういう責任を持って何を正しさとして旗を振るか、それは単純な問題では納まらないだろう。
で、あれば、あとはアーキテクチャ的なアプローチの可能性という事になる。
Facebookの実名、そして、社会的な関係性をオープンにしたうえでのコミュニケーションはそういった可能性を背負ってるのではないかと思う。2ちゃんねるのようなどぎつい言葉も、時に違法スレスレの言葉も、そこでは流通しない。例えしたとしても、コミュニティが排斥するだろう。
今までの2ちゃんねる文化に、いや、これまでの多様なネットのコミュニケーションに慣れ親しんだ人間にとって、それはかなり息苦しい文化だ。肩肘を張った文化だ。
しかし、ネットの言説が、現実のそれと比肩して低きに見られる現状の価値観を払拭するためにはそれくらいの荒療治は必要でないかと思う。
この自体社会が抱える諸問題はあまりに多く、困難なものばかりだ。それに対し、政治もメディアも硬直し、ブレイクスルーは期待できない。
ネットの柔軟性、多様性、情報の可視化、ビックデータの分析。社会はネットを介して、ネットは社会を背負って、共に変わっていくべきだ。
その変化は何も、古き文化の終焉を意味しない。新しい在り方を取り込んで、ネットは進化すればいいのだ。その為にも、ツールを使う我々がその変化に敏感でなければならない。