【動画】「佐々木俊尚×田原総一朗×80年代生まれの若者4人”21世紀の生き方”」を聴いて。昨日迄の終わりと明日からの始まりの間に。

 さて、ツイッターではちょこちょこと呟き、ここで色んなアウトプットをしたいなぁと考えてるのだけど、どう考えても、自分のアウトプットの遅さ、集中力の無さでは実行できないだろうなぁ。
 新書とか読書のまとめ、感想とか、普段聞いてる人文系の様々な動画の文字起こし及びまとめ、とか考えてるのだけど。

 さて、本題。

 今回はとある動画を聴いて思ったことを。

 その動画とはこちら。

 http://www.ustream.tv/recorded/20899261/highlight/246980
 
 もしくは、その動画を文字起こししたものもあるので、そちらも紹介しておく。

 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32207

 佐々木俊尚をモデレーターとして、田原総一朗と、80年代生まれ。20代後半から30歳くらいまでの、ルームシェアをしながらノマド的人生を歩み、ネットを通じて新たな共同体、連帯を模索している若者たちとの座談会企画。
 
 終身雇用などの旧来の労働観が破壊され、それに応じて企業的連帯は崩壊した。年金を始めとする社会保障に明るい未来もなく、生涯未婚率も高まっている。
 そんなこれまでの連帯が消滅し、自らの身を支えるネットワークをあたらに模索しなければならない現代で、可能性を探り実践をしている方々と、田原総一朗が向き合う。

 4人登場している、若者代表の方々の簡単なプロフィール。

 慎さん。
 投資会社勤務で、平日の昼間や休日を使い、個人でNPO活動に勤しむ。
 NPO活動は、途上国に対して少額から募れるファンドを通してファイナンスを行い支援をする。また、国内では児童養護施設への寄付を募ったりしている。

 イケダハヤトさん。
 フリーのブロガー。執筆や講演のかたわら、ベンチャー等のスタートアップやマーケティングのコンサルを行う。
 NPO活動もあわせて行い。中間支援として、現場で頑張る組織などに、ネットワークを通じた広報などの方法論を教える等の活動をしているとのこと。

 西田さん。
 一人毛色が違い、アカデミズムの現場に居る方。立命館大学非常勤講師。「統治を想像する」等の編者でもあり、ネットワーク等を通じたボトムアップの公共の在り方を研究している方。

 高木さん。
 今回の座談会の会場ともなった、「トーキョーよるヒルズ」と言うシェアハウスの主催者。広告代理店博報堂を退社後、シェアハウスを主催。誰でも泊まりに来ていい、出入り自由の場を設け提供し、そこで生まれる様々な人間関係、イベントに関わりビジネスに参画しつつも、どの組織にも属さずニートであり続ける。ニートでありながら人間関係のハブ的存在として、新しい時代におけるロールモデルの存在を自らの身をもって実験、実践をしている方。

 さて、ここまでの紹介であらかた分かる通り、これまでの終身雇用はもちろん、一組織に属する、社会人として単独の肩書きで生きる、と言う在り方からは離れ、独自、または複数の活動を通して、人間関係を築き、その連帯を持ってして互助的公共とする新しい公共、中間共同体の模索をしている方々。

 ネットが可能にした、様々な人間関係や多様な働き方等を活かし、これからの時代にいち早く対応するノマドワーカーの在り方を座談会では肯定的に捉え話が進む。
 
 経済の低迷で金銭的に裕福ではなくなり、ましてや、人口減少、経済の停滞が予測される中、これまでの日本社会を支えた平等の中流が崩壊し、雇用や社会が個々人を守らなくなった時代に、ネットを活かし、人間関係の網を築く。そして、その中で利他的に振るまい、評価を得ることで自身に付加価値をつけていき、セーフティネットを築くと言う評価経済社会での在り方。
 また政治不信の行政不信、加えて、価値観の多様化等で、トップダウンの一元的な公共政策が取りこぼす人間が増えつつある昨今、これまたネットで細かくニーズとサプライをマッチングし、ほんとうに必要な活動、構造を自助的に構築しようという新しい公共の在り方の模索という話も飛び交った。

 この方々のやってることは素晴らしいことであり、自身の力で、特定の肩書きに縛られること無く日々の糧を得、特有の能力を社会に還元し、またそのことで社会から必要とされる等身の守り方を実践していらっしゃる。
 
 この種のノマド論で、よく出てくるのは弱者に目が向いていない、という指摘だ。後半そのことにも論が移るのだが、これまでの社会の在り方が崩壊し、その事で社会から溢れるようにして、生き方を見失った人間が多く出た。
 それはこれまでに社会で居場所を獲得してきた存在でなく、これから社会に居場所を見つけようとしていた若者が大半だった。
 就活難民など、まさにその象徴だ。
 そんな中、これまでの社会からあぶれでた弱者達がどう生きていくのかという問題。それは確かに重要で、「昨日までで駄目なら、明日からの在り方を模索しなければならない。」まさにそれを実践しているのが上記の方々なのだけれども、問題は彼らが弱者なのか、と言うことである。

 確かに、これまでの価値観が続かなくなったので、新たに道を探す羽目になったと言う境遇は、一時的に不利な境遇、過酷な境遇に立たされたといえる。
 しかし、彼らには能力があり、既に適者生存の道を開きつつある。
 投資会社や広告代理店に努められる。大学院を卒業し、すぐに講師のポジションを手にし、本を出版できる。フリーとして、執筆や講演、20代にして、各種コンサルを担える。こんな人間はおそらく一握りだろう。
 新たな公共の形と彼らは良い、ロールモデルを提示できればと言うが、そのロールモデルを実践できる人間がはたしてどの程度居るのだろうか。

 例を挙げて、高木さん。
 この方は、座談会中しばしば「自分みたいな宙ぶらりんの生き方でも」というような表現をされるが、額面通り受け取るにはかなり抵抗のある背景がある。
先に、就職難民という例を出したが、就職難の昨今にあって、高木さんが過去に在籍した「博報堂」に入社できる人間が、全就活生の何割居るだろうか。いや、何割というオーダーでは語り得ないだろう。ほんの、ほんの一握り。何十万分の一、という程の倍率ではないだろうか。
 そこに就職して、かつ自身の持つビジョンと会社の方針が違う事を理由に、退社し、現状はコネと能力を活かしたコピーライターの仕事で、月に1,2日の労働時間に対し、三十万円前後の報酬を手にしているという。
 そんな人間が放つ「僕がロールモデルに〜〜」と言う言葉に、誰が追従できると言うのか。
 類まれなる実力や運を持ってして、収入を得、会社や社会のしがらみから逃れて生きると言う事はこれまでも可能だったわけで、新しい時代の、それも支えの無い中不安にさいなまれつつ、新たに寄りかかる事のできる公共や連帯を求める人々に対し、このモデルはなんの参考にもならないと僕は思う。

 この点は、田原氏も言及しており、「この人たちは弱者のふりして強者だからね」と皮肉と示唆の混じった発言をしており、その通りだと思う。

 一言書き加えておくと、対話の中で「一日二日で30万」と発言してるのだが、文字起こしされた原稿では「30万」の数字は伏せられいる点も、この記事全体の示そうとしているベクトルに違和感を覚える点である。

 閑話休題。弱者のノマド論である。

 対話の後半、論もここに力点を置くようになる。

 繰り返しになるが、今までの生き方、利益構造からはじき出された人間たちは現状で、居場所を獲得しておらず、社会的には弱者と呼べるからだ。

 今回の4名の方々の様な、恐らく、これまでの価値観の中でも成功できただあろう、そしてそれが時代背景に応じて、現代においてたまたま異なる強者のモデルを実践している方々の様なモデルははたして、今まだ弱者の立場に居る人間にとって実現可能なものなのだろうか。
 そして、そのモデルは、これまで、中流と呼ばれる、多くの人間が、こぼれることなく乗ることのできた利益構造に対し、どれだけ多くの人間を支え、かつ長期間においてサステナブルであれるのだろうか。
 それは時代の審判を待たねばいけない問題ではあろうが、恐らく普遍的かつサステナブルではないだろう。
 対話の中でもそれについての示唆はされている。曰く、テクノロジーの発展によってこのようなロールモデルが支えることのできる人間の数は増やせるだろうが、それにも限界がある、と。
 
 そして、こう続く。

 しかし、はたして、そこからもこぼれてしまうような人間についての言及。対話の中の佐々木氏の発言を借りれば「自らまったく努力をしないで自分のやりたいことまで見つからないという人まで、果たして包摂する必要があるのか」という問題がある、と。
 田原氏は「それじゃヒトラーだよ」と返し、佐々木氏も「そうなんです。国家社会主義になってしまう」として、包摂の必要性について範囲を限定する事を肯定するような態度を示している。

 この問題について、個人的に二つの見解があり、一つは僕の抱く哲学に深く基づくものなので、今回はその見地からは言及しない。
 もう一方の知見から反論を述べる、というか、ここから今回の僕が伝えたい主題になる。

 佐々木氏の言葉をもう一度借り、表現を変えてみたいと思う。「自らまったく努力をしないで自分のやりたいことまで見つからないという人」はつまり「なんとなく生きている」と言い換えられるだろう。
 そして、「なんとなく生きている人」まで、あまねく掬い取れるような、糧を与え安心を与えられるような利益構造、別の表現をすれば、生き方、幻想、当たり前の幸せ、と言ったものを模索する必要があるのか。ないしは、模索出来るのか。
 確かに、それは出来ないのかもしれない。しかし、過去、日本は、一億総中流と言う言葉の基にそれが出来ていたのではないだろうか。
 無論、その言葉、その構造に、包摂されてこなかった、社会が目を向けてこなかった存在がある事は否定しない。
 ただ、経済成長と終身雇用の傘の下で「なんとなく生きていく事」はこれまでの日本で可能だった、すくなくともそう信じていられた事は事実であろう。

 その傘が壊れたとされているのが現代だ。傘がなく雨露をしのげないのが、非正規雇用で安定しない明日におびえる若者であり、就職と言う社会に否定され自殺を選ぶ若者だ。  
 傘が壊れた。雨が降っている。
 ならば新しい傘を探さなければいけない。雨も強くなっている中で今度は、みんながみんな入ることのできる傘は探せないかもしれない。新しい傘の中に入っているためには、努力が求められる。勉強が求められる。なんとなくでは入ってはいられない。
 そういった議論が重ねられる。実践をしている人がいる。昨日は終わったのだから、明日に向かわなければいけない。

 それはわかるのだけど、昨日と明日の狭間で、傘が壊れてしまった事を悲しむ。傘が壊されてしまった事を怒る。新しい傘が、これまでの傘と違い、重く小さいのを嘆く。
 そんな感情が、行き場を失っているように思う。僕はそのことが非常に腑に落ちない。悔しい。納得がいかない。
 
 この感情を何処にぶつければ良いのか。原動力に変える、と言うが正解だろう。賢い人は、そんなのいいからとりあえず、新しい傘に対応すべく動くべきだと言うかもしれない。それはとても、強くて、正しい言葉なのだけども。なんとなくは、もう許されないのだけども。
 だけど、僕らはなんとなく、納得がいかないし、なんとなく前向きになれないのだ。これまで、なんとなくは許されてきたのだから。

 当たり前だったものが当たり前でなくなる時に、僕らは居る。誰も受け止めてくれない、悲しみや、怒りや、悔しさを抱えたまま。 

 
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