世界が広がっていく感覚

 ここ数ヶ月、日中の車移動時間を利用して、色々な動画に耳を傾ける習慣を始めた。討論、対談、シンポジウム、と言った類のもの。

 これが、まぁ、効果てきめんというか、これまで、新書なんて月に1冊2冊くらしか読む気力がわかなかったのだけど、動画なら「ながら」でも良いし、時間キッチリでとりあえず終わるし、一日2つ3つと触れられる。もちろん、新書1冊と、動画1つでは情報の密度や総量が違うけど、それでも、多く触れていれば、それなりに、分野への興味が拓かれていくのが感じられる。

 大学に言ってた時よりは、そういった物にアンテナを伸ばそうという意欲も高いせいか、大学の講義よりは身になってる気もする。
 元々、体系的に細かな知識を身に着けてから、と言う勉強のスタイルが好きではないのも手伝って、概略や包括的な議論の方が、深く考察も出来るし、身に合っているのではないと思う。本当に身につけ、何かを為す勉強としてはそういったやり方だけじゃ駄目なのだろうが。

 大学時代にサボっていた勉強をしてみて、今始めて見えてくることもある。

 適当にやってた頃に、勉強をしていて一番感じたことは、「物知らねぇなぁ」と言う無力感に近いもの。
無知の知」と言えば聞こえもいいけど、はっきり言って諦観に近く、勉強をするモチベーションは、少なくとも気力を絞って、文献を読み進める為の衝動はそこからは生まれなかった。だから続くなくて、見えてくるものも、少なく小さなモノだった。
 
 動画は、本よりも、受動的にこなせる。少ない気力でもなんとか聞ける。だから多少続くのだけど、で、それを繰り返してみたら、大学時代の勉強では見えて来なかったものに出会えた気が、今はしてる。

 それは「接続」の感覚。

 動画の対象を「人文」でなんとなく近いジャンルに絞ってるからこそ顕著に感じることだとも思うのだけど、例えば、文学と政治。哲学と経済学。芸術と社会問題。とかとか、学問的に異なるジャンルの中で、非常に強く通底する概念であったり、共通の問題認識があったりすることに気づく。
 
 その気づいた瞬間と言うのが、「接続」と僕が呼ぶもので、これが結構な快感である事に気づく。と言うのも、それが、これまで不快に感じていた「無知の知」を解消に働くから。
 
無知の知」。足らぬを知ると言うのは、何かを学ぶ過程で、恐らくなくなるものではないのだけど、「接続」の瞬間、自分の知っている、小さな世界が別の世界につながる瞬間だけは、それを忘れさせてくれる。その瞬間に感じる、自分の世界が大きく広がった感覚に、自分の持っている世界が広がって、大きな世界に重なるのでは無いかという感覚に一瞬だけだけど、無力感を忘れることが出来る。

 それが、勉強を続けようと思った人を最初に迎えてくれるご褒美なのかなぁと思った。
 
 その先に、まだまだ、困難は多いのだろうけども、今は、このご褒美に酔っていたい。


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