【シンポジウム】「日本と諸外国における創作表現の規制の現状と課題」に行ってきた。
えー、まぁ、表題の通り。当日まで行こうか迷っていて、定員オーバーになったらどうしようとか、行かない理由ばかり探してたんだけど、仕事の都合がつきそうだったのもあって、アクティブになるべきと自らを奮起して言ってきた。
詳細はこちら。
http://icc-japan.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html
もしくはこちら。
http://togetter.com/li/305769
良くある、表現規制のシンポジウムなんだけど、特色として、海外の事例を勉強し、オタク文化を国際的な文化と位置づけ包括的に一致団結しようという内容。アメリカ、台湾、タイの事例を聞きつつ、森川嘉一郎氏、藤本由香里氏、山口貴士氏らおなじみの方々とトークセッションをしようと流れだった。
諸外国の登壇者の方の事例を聞いての大雑把な感想としては、アジアの諸国は宗教的文化的な開かれ具合を勘案する必要はあるもののどこも似たようなことになってんだなぁ、と。つまり、性に関する表現や暴力の表現と言った問題は表現の自由とかで守られてた方がいいんじゃないか、と。でも、無制限も駄目だし、それは文化的歴史的学術的価値のあるものだけね、で、マンガアニメは低俗だからその辺の価値は無いよね。だから駄目。と言う論理。
つまりはオタク文化の社会的地位が低いことに起因する、と。この共通についての個人的見解は後述する。
興味深かった、と言うか、かなりのレベルで報告書をまとめ、規制問題の歴史的経緯から実例まで丁寧に解説していた、Charles Brownstein氏の報告が色々刺激された。
が、まずもって、アメリカの法体系とか基本的な倫理とかが分からないので、なんとも判断しづらい。
アメリカでは性的倒錯者(写真付で実例を挙げていたが、「こどものじかん」とか読んじゃう奴はそう判断されちゃうらしい)は、性犯罪を犯してなくとも再教育の必要ありと判断されて収監されかねないらしい。日本で話題になった非実在青少年みたいな法案が普通に適用されて立件されるとか。こえぇ。
アメリカって、様々な趣味嗜好は徹底的なゾーニングや監視下に置かれるリスクを条件になんでもOKと言うイメージがあったんだけど、児ポが絡むと凄いんだなぁと思った。
内心の自由はどうするんけ?とか、思わんでもない。
対し、検察側の結構なアクロバティックな動きが意味するものは何か、と考える。
日本国憲法も詳しくないのに、合衆国憲法なんて知る由も無いが、それでも挙げられていた事例はかなり違憲というか、人権侵害に近い摘発じゃないかと思う。
一つは、Brownstein氏のロビイングの一環としての、規制側へのネガキャンではないかと言う点。極端に大儀は我に有りという論法ではないかと言う気もしてしまうのが一点。
もう一つは、これも後述と接続するが、「オタクのイメージ」と言う点。アクロバティックな摘発がまかり通ってしまう背景に、勝手な想像ながら、陪審員制度と言うのは大きいのではないかな、と個人的に思う。世論を味方に付けてないと、法解釈上の理なんてものは意味を成さなくて、有罪にされてしまうのではないか、と。
で、森川氏の講演。
コレはシンプルに、二点。
一点。オタク産業の文化的階層構造を説明し、エロパロを含む自由な表現の場が日本のコンテンツ産業の質を担保してるのだと言うこと。
エロ漫画家の鳴ハナが関わったアニメが、文化庁メディア芸術祭で賞とってんだよ!同様、まどマギだって、脚本はエロゲライターなんだよ!という理屈。まぁシンプルだし説得力もある。
二点目。上記の様な事例を通じて、我々は規制はに対し北風だけでなく、太陽作戦も敢行すべき。つまり、理路整然と表現の自由だとか憲法解釈論議をぶつだけでなく、イメージ戦略も行っていかなきゃとの事。
どちらも至極まっとうであると感じた。
で、森川氏の二点目を受けて、前述で留保していた問題意識について。
この問題の根っこは、オタクのパブリックイメージにあるのだと思う。
もっと端的に言えば「オタクはキモイ」だから「オタクは嫌い」という論理。
先に、アメリカの陪審員制度に言及したのもそこで、会場で質問できればとも思ったのだけど、「諸外国で、オタクコンテンツを消費するユーザー層に特定のステレオタイプは存在するか。するのであれば、どういうもので、それは一般にはどういった印象で捉えられているのか」が気になった。
オタク、だけでなく、オタク文化。コンテンツの社会的地位が低い、向上しないと言うのもそこに原因の一端がある気がしてて、消費してる層の社会的階級が如実に悪影響をもたらしている気がしてならない。
広辞苑で「おたく」を引くと「特定の分野にしか関心がなく、社会常識に欠けてる人」とある。つまり、それがオタクやオタク文化のイメージなのだと僕は思う。
キモイ、と言う感情に対して、憲法上の自由を旗にかざしても意味は無い。
その点で日本の既成反対運動も、アメリカの反対運動も、相手の論理的欠点をついて、自己の正当性を声高に叫ぶと言う手法において一定の短所をはらんでると思う。
山口氏は、往々に、そういう戦い方をしている方だと僕は捉えていて、それはそれで、駄目なことではないと思う。氏の発言でも官僚や議員に対しては「建前」を振りかざすのは有効である、とあって、それはそれで正しいのだと思う。
ただ、それだけでは駄目だとも思う。山口氏がどこまで、そこに自覚的なのかは分からないし、わかった上で役割分担として、弁護士である自分を「建前」の議論に向かわせているのかも知れない。
森川氏はその点に自覚的で「太陽作戦」もその事を示唆している。近年に深夜アニメの視聴者層が変わってきて、いわゆるオタクじゃない人間もそういったコンテンツを消費する傾向が強まってきている。オタクはそう言ったリア充をも取り込んで戦略的にイメージロビイングをすべきだと氏は纏めていた。
一部賛成である。
しかし、もう一度踏みとどまりたいのは、規制や社会的圧力に対し、僕たちはオタクコンテンツをどうしたいのか、と言うことだ。コレは極個人的な観点だが、オタクコンテンツはオルタナティブなメディアだと思っている。オタクと言う日陰者のアイデンティティではないかとも思っている。
オタクコンテンツを文化的に価値の高いものとして宣伝し、それを公に認めてもらうのが僕らのしたいことなのだろうか。それが生存戦略であればそうするしかないと思う。なくなってしまうのはいやだから。
でも、エロマンガをみるとき、僕らは文化的価値を見出してはいない。閉じたセカイに没入するとき、思春期の心の機微に文学的な価値を認めてばかりではない。それは単に現実逃避という欲望のツールだ。
そういった面もあるのだということ。それは文化的だとか、産業としてどうとかでなく、そういう物を拠り所にするしかない人間を受容できる社会の多様性はもう失われてしまったのか、と言う論理。説得ではなく、泣き付くしか出来ないのではないかとも思う。少なくとも、そういうメンタリティが厳然として存在することは忘れちゃいけないし、既成反対の議論ではしばしば置き去りにされる観点かなぁとも思ったので、感想として残しておく。
同じシンポジウムに出てた方の感想も見つけたので、そちらも付記。
http://d.hatena.ne.jp/sagann/20120518