【エッセイ】「ネットの中の私はどこの私か」粉川一郎(武蔵大学 社会学部メディア社会学科 教授)を読んで。

 まずは、はじめにリンクを貼っておく、表題のエッセイで、僕が大学時代お世話になったゼミの先生が寄稿したモノ。
 http://japan.cnet.com/news/society/35017262/

 以前、大学へお邪魔し、その後もツイッターで何度か「2ちゃんねる」についての話を伺ったのだけど、それも含めた現状のネット上でのコミュニケーションの概論を論じたもの。

 簡潔にまとめれば、黎明期のボランタリーで脱パーソナル的、コンテンツ重視のコミュニケーションから始まったネット上のコミュニティの在り方は、ブログやmixiと言った連続した一つのパーソナル(実在か架空は問わず)が前面に押し出されるものへと形を変えていき、Facebookはそのパーソナルから架空のものを排除する形を取ろうとしている。そんなネット上のコミュニケーションの在り方の変化に、著者は古くからのネットユーザーとして一定の違和感を覚えつつも、懐古主義だけに依ることなく、その意義を問う必要性を語っているエッセイとなっている。

 前段として、僕が、この教授に話を伺った時、2ちゃんねるの有用性は、神話と口承、もう少し簡単に言えば、コミュニティにおける物語の機能で語ることが出来ると言っていて、それを僕はどう咀嚼したもんかと、一時煩悶としていた。

 して、その心は、と言う僕の見解はこうだ。
 まず、2ちゃんねるにおける「神話」と「口承」とは何か。それは作者不在で、語ることがそのまま物語ることに繋がると言う物語と伝播の構造を示しているのだと思う。
 次に、コミュニティにおける物語の機能である。
 物語のコミュニティにおける機能とは、コミュニティと言う存在を規定する機能であると言える。同一の物語が共有されている範囲が、ひとつのコミュニティであり、その中の成員は皆がひとつの物語を共有している。それぞれ逆を返せば、物語無きコミュニティはコミュティ足り得ず、物語にかかわらない存在はそのコミュニティの成員足り得ないのである。
 2ちゃんねるは基本的には匿名の書き込みの集合であり、その集合から、特有の言語やノリが生まれる。それらが繰り替えしコピペされることにより、広まり、徐々に改変されていく。その過程で文化や空気を生み出す。その無形の集合こそが、2ちゃんねるにおける作者不在の神話なのであり、それを解し、また使うことのできる人間こそが、神話を語り、聞く人々、すなわちその文化の担い手たるコミュニティの成員、2ちゃんねらーとなるのだ。

 この見解が正しいか否かは、先生のエッセイの文中にも記載がある。大まかには外れていないのかな、と感じているのだが、ただ、この見解はあくまで、2ちゃんねるにおけるにコミュニケーションの在り方であり、その在り方が「良い」かどうかを語る射程は持ち合わせていない。

 エッセイの著者である先生は、一古参ネットユーザーとして、Facebookのようなパブリックなパーソナルを強要されるコミュニケーションに一定の違和感を呈してる。しかし、ここで注意が必要なのは、先生が述べているのは「嫌い」であり、「悪い」では無いということだ。
 一ユーザーの立場から、好悪を語りつつも、あくまでこのエッセイの主眼は、変容とそれぞれの有り様の意義である。
 先生が僕自身に向けて言った「良い」は、おそらく多分に、この「好き」が含まれつつ、ネットのコミュニケーションに一定の目的を課すのであればと言う限定が含まれるだろう。

 この時、ネットのコミュニケーションが何をもってして「良い」とするのか、と言う観点を明確にすることが必要になる。先に書いた、2ちゃんねるの機能についても、そういう構造を持ち機能する、と言う話で、それが何にとって、どう良いか、と言う視点がなければ是非は語れない。

 僕はFacebookを、社会のネット化だと捉えている。
 ネットは人と人が繋がるから、そこに社会が生まれるのは当然なんだけど、これまでは大きな実生活の社会と言うものがあって、その大きな社会の中に、ネットをする人による、ネットユーザー同士の文化圏とでも呼べる繋がりが小さな社会として機能していたという構造だった。
 それは、インターネット通信からの連続であり、2ちゃんであり、mixiであった。そこは実社会の中に組み込まれながらも、隔絶も可能なコミュニケーションの場であり、当然、そこのコミュニケーションにあたって、人は現実の自分でありながら架空の自分であることも出来る、ハイブリッドなネット人格とも呼べるものを構築できた。

 それはコミュニケーションの拡張であり、自己の可能性の探求でもあった。また端的に息抜きの場でもあり、各種のしがらみにまみれた実社会とは別の文脈で新たな文化の生まれる温床足りえた。

 重ねて言うが、Facebookはその構造から脱し、社会のネット化として機能しようとしているのではないか。社会の中の一クラスタであったネット社会という役割を終え、人と人とが、連続性の保たれた責任を持つ個同士として不可避に接し、互いの利害を折衝すると言う社会そのものを、ネットの世界で再構築しているのではないか、と言うことだ。
 実社会で、人はHNで名乗らない。その人間が誰かがわからなければ、不可避な自分の実生活で利害を共にする人間として信頼されないからだ。
 そこには、しがらみがある。だからこそ、これまでのコミュニケーションにあった気楽さや、くだらないノリの中でしか生まれ得なかった文化はその芽を見ない。しかし、実名の信頼に足る相手同士だからこそ手を取り合えるビジネスや社会活動と言う物もまたある。責任が生じるからこそ、そして、実社会と違い、履歴が残り、関係性が可視化されるからこそ、そこでは、公共心を持って活動することを余儀なくされるからだ。

 それは、これまでのネットが生み出せなかった文化だ。
 実社会の問題はどこまで行っても不可避で直視しなればならない問題だ。そこに対し、これまでのネットの文化は、一定の意見を呈す程度にしか効果を発揮できない側面があった。どこまで行こうとも、責任を逃れる仕組みが機能していたからだ。
 Facebookに存在する私は、確かに何処かに暮らし、何処かで勤める、存在のある私でしか無い。そういう私でなければ、新たな可能性をネットに見ようとするアーキテクチャで存在する価値はない。その可能性は、これまでのネット文化との比較で是非を論じるべきものではないと僕は思う。

 論じるべきは社会構造そのものをネットで息づかせることが出来るのか。と言ったことではなく、それに対し、忌避感を感じてしまう人々の意識をどう変え、関係性を効率的に拡張的に構築していけるかと言う事なのではないかと思う。


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