生きると言うことは「誰かに認められる」事なのか。

 社会問題等に敏感な人を何人かTLに入れると、情報の感度が飛躍的にあがる。
「世はことも無し」と誰が言ったのか知らんけど、TLを見てると「世は事だらけ」だと本当に痛感する。

 世は事も無しかどうかは、本題に入るための、枕詞と言うか単なる接頭の決まり文句のつもりで書いたのだけど、それ自体が一個考察に耐えうるテーマな気がしてきた。問題の多さ、その絶対量の多寡ではなくそれが可視化されうる状況。そして、人の処理能力みたいな話。

 さて、閑話休題、も何も、まだ、本題を披露してすら居ない。
 本題。それは、タグを付けるとすれば、いじめ問題。評価経済社会ベーシックインカム。と言う話になる。のだけど、それぞれが僕の脳内で有機的に絡まっていて、それを快刀乱麻する文章力、論理的思考能力が無いので、これから先、どこにどう着地するかはわからない。
 とかく、個人の人格、生存はどう認められるべきかみたいな話、をしたい。と思う。

 評価経済社会については、以前、少し触れた。ツイッターでも言及した。
 福祉、救済的な公的な公共(公的なと言うのは無論、公的機関によると言う意味)が崩れて良くかもしれない中で、自分を助ける状況、セーフティーネット等を、他社からの善意を自信の与える価値が生み出す評価によって引き出すことで構築しようと言う考えだ。
 これがこれからの時代に適応した、新しい生き方、働き方の在り方であるという事に反対意見は無い。でも、個人的に強く括弧を求めたい。つまり、その在り方は『一つの、それもごくごく一部の有能な人間にのみ可能な』在り方である言う事だ。
 
 つまり、従来の弱者を救うと言う状況に対し、強者のみが可能な適応法を提示されても、語義的に本来の価値、つまり弱者はどう生きるかと言う問題に対しての答えとして価値を持ち得ないと言う事だ。
 
 さて、いじめ問題である。
 いじめ問題も弱者の問題であると思う。

 学校という空間でいじめによって生まれる弱者。資本主義社会、福祉の崩壊した社会と言う空間で生まれる弱者。同一の構造を持つ二者には、同様の救いの論理がもたらされねばならない。

 つまり、いじめ問題も評価経済的論理では解決できないと言うことが言えると思う。

 ここで一つ引用したい。

 ツイッターでも著名な乙武氏が、「いじめから発展した自殺」に限定はしていないが、自ら命を絶とうとする存在に対してと思われる文脈でした発言である。
 
 https://twitter.com/h_ototake/status/223594237910978560
「君のことを必要としている人がいます。まだ、君はそのことに気づいていないだけなんだ。この先、君が幸せにするはずの人は、君と出会えることを心待ちにしています。でも、もし君が死んでしまったら、その人たちは君と出会うことができなくなってしまう。だから、生きていてほしい。今がつらくても。」

 これが個人的には首肯できかねる内容なのだ。

 少し悪意を持って解釈すれば、「君は、他者に価値をもたらす可能性を秘めているから、あなたの辛いという感情を押し殺してでも存在すべきだ。」と言っていると読める。
 これはとても、評価経済的だと、僕は思う。他者に評価をされる、すなわち価値をもたらすことがその存在の意義である、としている。

 そして、もはや語るまでもなく、これは裏返しの意味を持つ。価値をもたらすことの出来無い存在の存在意義は、無い、と。

 ここで、乙武氏の擁護もしておきたい。僕が、自らの論を強固にするために、明確な文脈の存在しないツイッターの発言を些か恣意的に引用し、利用したからだ。
 僕の、引用の発言自体の意の解釈は、間違っていないと思う。
 ただ、自殺をしようとしている存在に対し、こうした呼びかけが有用な効果をもたらしうる可能性は当然あるだろうし、それが実際功を奏すればその価値は疑いようもない。その事は付記しておく。
 
 さて、他者に価値をもたらすことの出来ない弱者、は生きる資格を持ち得ないのか。そんなことはない。いや、そんなことはあってほしくない。

 そこで、もう一つ、いじめ問題、評価経済社会に接続するのが、BI。ベーシックインカムの論理だ。ベーシックインカムの政策としての細かな説明は省くが、要は、年金や生活保護や控除、現金給付の補助金等を一本化し、どんな立場にある人間かに関わらず、すべての人に毎月一定の金額を給付しようという論理だ。
 
 その具体的な金額や方法論、社会的影響には諸説あり、まだまだ議論の熟成が待たれる話題ではあるが、個人的にここでBI論を引きたいのは、その理念に共感したからだ。
 
 生産性の向上や労働の価値と言う問題も、BI論の中核を為すのだけれども、なにより大きいのは、どんな理由であれ、どんな存在であれ、飢えて死んでしまうのは違うだろう、と。ありとあらゆる人に、それは、誰かに価値を供出しない存在であっても、最低限生きる権利は保障すべきだろう、と。生活保護も似たような原理で動いてると思うが、とかく、この理念が大事だと思う。
 綺麗事を実現できる力を、我々は技術によって手にしたのでは無いだろうか。

 経済と構造が、生きる糧を手に入れる機会を奪う時。強烈な悪意が、自己の存在を徹底的に破壊する様な陰惨な行為を行った時。そんな時に光明となるのは、違う形で、違う場で「頑張れば」いいじゃん、と言う言葉ではないと思う。
 頑張らなくてもいい。頑張らないからと言って、誰もあなたを脅かさないと言う安心が、切に望まれているのではないだろうか。


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