【シンポジウム】「日本と諸外国における創作表現の規制の現状と課題」に行ってきた。

 えー、まぁ、表題の通り。当日まで行こうか迷っていて、定員オーバーになったらどうしようとか、行かない理由ばかり探してたんだけど、仕事の都合がつきそうだったのもあって、アクティブになるべきと自らを奮起して言ってきた。
 
 詳細はこちら。
 http://icc-japan.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html
 もしくはこちら。
 http://togetter.com/li/305769

 良くある、表現規制のシンポジウムなんだけど、特色として、海外の事例を勉強し、オタク文化を国際的な文化と位置づけ包括的に一致団結しようという内容。アメリカ、台湾、タイの事例を聞きつつ、森川嘉一郎氏、藤本由香里氏、山口貴士氏らおなじみの方々とトークセッションをしようと流れだった。

 諸外国の登壇者の方の事例を聞いての大雑把な感想としては、アジアの諸国は宗教的文化的な開かれ具合を勘案する必要はあるもののどこも似たようなことになってんだなぁ、と。つまり、性に関する表現や暴力の表現と言った問題は表現の自由とかで守られてた方がいいんじゃないか、と。でも、無制限も駄目だし、それは文化的歴史的学術的価値のあるものだけね、で、マンガアニメは低俗だからその辺の価値は無いよね。だから駄目。と言う論理。
 つまりはオタク文化の社会的地位が低いことに起因する、と。この共通についての個人的見解は後述する。

 興味深かった、と言うか、かなりのレベルで報告書をまとめ、規制問題の歴史的経緯から実例まで丁寧に解説していた、Charles Brownstein氏の報告が色々刺激された。
 が、まずもって、アメリカの法体系とか基本的な倫理とかが分からないので、なんとも判断しづらい。
 こどものじかん 1 (アクションコミックス)
 アメリカでは性的倒錯者(写真付で実例を挙げていたが、「こどものじかん」とか読んじゃう奴はそう判断されちゃうらしい)は、性犯罪を犯してなくとも再教育の必要ありと判断されて収監されかねないらしい。日本で話題になった非実在青少年みたいな法案が普通に適用されて立件されるとか。こえぇ。
 アメリカって、様々な趣味嗜好は徹底的なゾーニングや監視下に置かれるリスクを条件になんでもOKと言うイメージがあったんだけど、児ポが絡むと凄いんだなぁと思った。
 内心の自由はどうするんけ?とか、思わんでもない。
 
 対し、検察側の結構なアクロバティックな動きが意味するものは何か、と考える。
 日本国憲法も詳しくないのに、合衆国憲法なんて知る由も無いが、それでも挙げられていた事例はかなり違憲というか、人権侵害に近い摘発じゃないかと思う。
 一つは、Brownstein氏のロビイングの一環としての、規制側へのネガキャンではないかと言う点。極端に大儀は我に有りという論法ではないかと言う気もしてしまうのが一点。
 もう一つは、これも後述と接続するが、「オタクのイメージ」と言う点。アクロバティックな摘発がまかり通ってしまう背景に、勝手な想像ながら、陪審員制度と言うのは大きいのではないかな、と個人的に思う。世論を味方に付けてないと、法解釈上の理なんてものは意味を成さなくて、有罪にされてしまうのではないか、と。
 
 で、森川氏の講演。
 コレはシンプルに、二点。
 一点。オタク産業の文化的階層構造を説明し、エロパロを含む自由な表現の場が日本のコンテンツ産業の質を担保してるのだと言うこと。
かみちゅ! 1 (電撃コミックス)魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray] エロ漫画家の鳴ハナが関わったアニメが、文化庁メディア芸術祭で賞とってんだよ!同様、まどマギだって、脚本はエロゲライターなんだよ!という理屈。まぁシンプルだし説得力もある。
 二点目。上記の様な事例を通じて、我々は規制はに対し北風だけでなく、太陽作戦も敢行すべき。つまり、理路整然と表現の自由だとか憲法解釈論議をぶつだけでなく、イメージ戦略も行っていかなきゃとの事。
 どちらも至極まっとうであると感じた。
 
 で、森川氏の二点目を受けて、前述で留保していた問題意識について。

 この問題の根っこは、オタクのパブリックイメージにあるのだと思う。
 もっと端的に言えば「オタクはキモイ」だから「オタクは嫌い」という論理。
 先に、アメリカの陪審員制度に言及したのもそこで、会場で質問できればとも思ったのだけど、「諸外国で、オタクコンテンツを消費するユーザー層に特定のステレオタイプは存在するか。するのであれば、どういうもので、それは一般にはどういった印象で捉えられているのか」が気になった。
 
 オタク、だけでなく、オタク文化。コンテンツの社会的地位が低い、向上しないと言うのもそこに原因の一端がある気がしてて、消費してる層の社会的階級が如実に悪影響をもたらしている気がしてならない。

 広辞苑で「おたく」を引くと「特定の分野にしか関心がなく、社会常識に欠けてる人」とある。つまり、それがオタクやオタク文化のイメージなのだと僕は思う。
 キモイ、と言う感情に対して、憲法上の自由を旗にかざしても意味は無い。
 その点で日本の既成反対運動も、アメリカの反対運動も、相手の論理的欠点をついて、自己の正当性を声高に叫ぶと言う手法において一定の短所をはらんでると思う。 
 山口氏は、往々に、そういう戦い方をしている方だと僕は捉えていて、それはそれで、駄目なことではないと思う。氏の発言でも官僚や議員に対しては「建前」を振りかざすのは有効である、とあって、それはそれで正しいのだと思う。
 ただ、それだけでは駄目だとも思う。山口氏がどこまで、そこに自覚的なのかは分からないし、わかった上で役割分担として、弁護士である自分を「建前」の議論に向かわせているのかも知れない。

 森川氏はその点に自覚的で「太陽作戦」もその事を示唆している。近年に深夜アニメの視聴者層が変わってきて、いわゆるオタクじゃない人間もそういったコンテンツを消費する傾向が強まってきている。オタクはそう言ったリア充をも取り込んで戦略的にイメージロビイングをすべきだと氏は纏めていた。

 一部賛成である。
 しかし、もう一度踏みとどまりたいのは、規制や社会的圧力に対し、僕たちはオタクコンテンツをどうしたいのか、と言うことだ。コレは極個人的な観点だが、オタクコンテンツはオルタナティブなメディアだと思っている。オタクと言う日陰者のアイデンティティではないかとも思っている。

 オタクコンテンツを文化的に価値の高いものとして宣伝し、それを公に認めてもらうのが僕らのしたいことなのだろうか。それが生存戦略であればそうするしかないと思う。なくなってしまうのはいやだから。
 でも、エロマンガをみるとき、僕らは文化的価値を見出してはいない。閉じたセカイに没入するとき、思春期の心の機微に文学的な価値を認めてばかりではない。それは単に現実逃避という欲望のツールだ。
 そういった面もあるのだということ。それは文化的だとか、産業としてどうとかでなく、そういう物を拠り所にするしかない人間を受容できる社会の多様性はもう失われてしまったのか、と言う論理。説得ではなく、泣き付くしか出来ないのではないかとも思う。少なくとも、そういうメンタリティが厳然として存在することは忘れちゃいけないし、既成反対の議論ではしばしば置き去りにされる観点かなぁとも思ったので、感想として残しておく。

 同じシンポジウムに出てた方の感想も見つけたので、そちらも付記。
 http://d.hatena.ne.jp/sagann/20120518


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【ボドゲ】ゲームマーケットに行って来た

 ゲームマーケットに行って来た。
 趣味や人間関係にマンネリしてる気がしてるものあったし、ちょっと強引にでも動かないと、日中、昼寝して過ごすという休日にもなりがちだったから。

 で、ゲームマーケット
 が、これ。http://gamemarket.jp/

 要は、コミケ。のボードーゲーム、TRPGなどなど、いわゆる非電源系ゲーム版。同人ゲーム。ゲームのリプレイ。海外のゲーム、中古のゲームの販売。ダイスやゲーム用フィギュアに始まり、体験会等も行われる、日本最大の非電源系ゲームの祭典ということらしい。

 コミケが、3日間、ビックサイトを埋め尽くして、延べ20万人に対し、ゲムマは1日。東京都立産業貿易センター台東館の3フロアで3000人とのことだけど、これでも増えたらしい。
 オンリーの同人誌と言うのがどれくらいの規模かわからないので、なんとも言えないけど、海外の隆盛に乗ってゲームの種類も多いし、同人作品も多さに対して参加者が少ないと感じた。好きな人はすっごい好き!って言う類のジャンルなんだなぁと思った。

 で、いくつかゲームをやったので、その感想。

 と、思ったけど名前がわかんないのも多かったので、なんとなくな説明。

 1個目。ジェンガ×だるま落とし、みたいな奴。
 だるま落としの感覚で、段々になったブロックをツルハシで叩く。ブロックに付けたクリスタルを落とすと、その色に応じて得点。ガッシャーン崩すと、そいつはマイナス点で、ゲームはその時点で終了。
 ゲームと言うよりは、おもちゃに近かった。シンプルでわかり易かった。

 2個目。なんか、ウサギのゲーム。
 場(農場)があって、場はプレイヤーが山札から引いて、伏せたカードでどんどん大きくしていく。で、プレイヤーは、その中に自キャラのウサギを忍ばせる。ターン制のプレイでは、山札を引く。人参を取る。人参を消費して、場の上の農夫を動かす。の3つの内2つができて、最終目標は相手のウサギを全部捕まえることが目的。
 ルールを大まかに勘違いしてないので、なんとも言えないが、ウサギを場に伏せることに強制力がないので、山札分、場が広がってからの勝負になりがちで、自分がウサギを含むどのカードを何処に伏せたか覚えておくという神経衰弱ゲーだなぁと思った。ウサギのイラストとか全体的なデザインは可愛かった。

 3個目。なんか気球のゲーム。
 プレイヤーは、みんなで一つの気球に乗る。気球はプレイヤーの中から選ばれた操縦士一人が操縦する。気球は高くまで上がれば高得点。上に登るためには、赤、黄、緑、紫の手札から、サイコロで指定された色を操縦士が出せれば、登る。出せなければ落ちる。操縦士以外のプレイヤーはサイコロを振った時点で、操縦士がその札を持っているかどうか予想して、気球から降りるかどうかを選択できる。降りればその時点の高さに応じた得点。札がなければ墜落で、無得点。落ちた時点で操縦士は隣のプレイヤーに移る。で、先に50点を取ったら勝ちで終了という、カードのカウンティングとチキンレースを合わせたようなゲーム。運の要素もあるし、デザインが全体的にしっかり作りこんであって、面白かった。ブースのお姉さん、知らないお兄ちゃん、連れと僕の4人で
プレイ。そこそこ面白かった。

 4個目。ヤイカーズ。
 友人のヴァランが買ったバカゲー
 ルール超単純。シート状に4分割されていて、自由に形成できるフィールドがあり、そこに超強力な磁石を順番に置いていくというモノ。近いとくっついたり、弾いたり。ただ、それだけ。超単純。なぜか、最後の一個を置く時はUNOよろしく「ラストヤイカー!!」と宣言しなければいけないとか、意味の分からないルールも盛り込まれた馬鹿ゲー。でも面白かった。
 磁力が強すぎて、精密機器に近づけないでくださいと注意書きがあったり、飛行機に載せられなくて空輸できないとか、色々エピソードもアホ。

 5個目。ゴジラスタンプ。
 こちらも知人の購入ゲーム。
 場に人数+2枚の得点カードが用意される。得点は、3(確かあった気が?),5,7,9、と特殊得点カード。手札は、12345と特殊カードで、手札からカードを出し、数字が大きい人から好きな得点カードを一枚取れる。特殊カードは、特殊カード同士がかぶらなければ残った3枚を全部取れると言うもの。全員が手札を使いきるまで、同じ事を繰り返し、最後に得点集計。
 普通に、面白くなかった。不備はないけど、なにが面白いのかな、と言う感じ。ゴジラである必然性も別になかったし、公式かどうか分かんなかったけど、ファンアイテムなのかな?

 6個目。卑怯なコウモリ。
 これまた知人購入ゲーム。
 これも、手札を掛け札として、場に出すタイプのゲーム。使いきるまで繰り返し勝った数がそのまま得点。札は、獣と鳥コウモリの三種。
 獣は鳥より強くて、同数以上なら獣の勝ち。コウモリは買った方に乗る。場にコウモリと獣と鳥どちらかだけだと、コウモリじゃないほうが勝ち。だったかな?うろ覚え。
 場に提示する際はオープンでもいいし、裏向きに、嘘の宣告をしながら出して、相手にブラフをかけてもいい。
 って、感じ。なんとなく、ゴキポーっぽかったけど、ゲームのテンポが良すぎてしっかり駆け引きをする感じでは楽しめなかったのが残念。

 とまぁ、色々楽しんだ。その後、焼肉行ったり、アキバのメイド居食屋に行ったり。なにより、大学自体の交友関係に彼女を連れ行ったのはほぼ始めてだったので、それが大きな収穫だった。 

 また、こういうイベントを見つけて遊びにいければいいな。

世界が広がっていく感覚

 ここ数ヶ月、日中の車移動時間を利用して、色々な動画に耳を傾ける習慣を始めた。討論、対談、シンポジウム、と言った類のもの。

 これが、まぁ、効果てきめんというか、これまで、新書なんて月に1冊2冊くらしか読む気力がわかなかったのだけど、動画なら「ながら」でも良いし、時間キッチリでとりあえず終わるし、一日2つ3つと触れられる。もちろん、新書1冊と、動画1つでは情報の密度や総量が違うけど、それでも、多く触れていれば、それなりに、分野への興味が拓かれていくのが感じられる。

 大学に言ってた時よりは、そういった物にアンテナを伸ばそうという意欲も高いせいか、大学の講義よりは身になってる気もする。
 元々、体系的に細かな知識を身に着けてから、と言う勉強のスタイルが好きではないのも手伝って、概略や包括的な議論の方が、深く考察も出来るし、身に合っているのではないと思う。本当に身につけ、何かを為す勉強としてはそういったやり方だけじゃ駄目なのだろうが。

 大学時代にサボっていた勉強をしてみて、今始めて見えてくることもある。

 適当にやってた頃に、勉強をしていて一番感じたことは、「物知らねぇなぁ」と言う無力感に近いもの。
無知の知」と言えば聞こえもいいけど、はっきり言って諦観に近く、勉強をするモチベーションは、少なくとも気力を絞って、文献を読み進める為の衝動はそこからは生まれなかった。だから続くなくて、見えてくるものも、少なく小さなモノだった。
 
 動画は、本よりも、受動的にこなせる。少ない気力でもなんとか聞ける。だから多少続くのだけど、で、それを繰り返してみたら、大学時代の勉強では見えて来なかったものに出会えた気が、今はしてる。

 それは「接続」の感覚。

 動画の対象を「人文」でなんとなく近いジャンルに絞ってるからこそ顕著に感じることだとも思うのだけど、例えば、文学と政治。哲学と経済学。芸術と社会問題。とかとか、学問的に異なるジャンルの中で、非常に強く通底する概念であったり、共通の問題認識があったりすることに気づく。
 
 その気づいた瞬間と言うのが、「接続」と僕が呼ぶもので、これが結構な快感である事に気づく。と言うのも、それが、これまで不快に感じていた「無知の知」を解消に働くから。
 
無知の知」。足らぬを知ると言うのは、何かを学ぶ過程で、恐らくなくなるものではないのだけど、「接続」の瞬間、自分の知っている、小さな世界が別の世界につながる瞬間だけは、それを忘れさせてくれる。その瞬間に感じる、自分の世界が大きく広がった感覚に、自分の持っている世界が広がって、大きな世界に重なるのでは無いかという感覚に一瞬だけだけど、無力感を忘れることが出来る。

 それが、勉強を続けようと思った人を最初に迎えてくれるご褒美なのかなぁと思った。
 
 その先に、まだまだ、困難は多いのだろうけども、今は、このご褒美に酔っていたい。


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【マンガ】「犯罪王ポポネポ」逸脱のエンターテインメント

犯罪王ポポネポ 1 (ヤングジャンプコミックス)

犯罪王ポポネポ 1 (ヤングジャンプコミックス)

新刊を買った。
個人的に今一番注目してる作家さんの一人である、小路啓之さんの新刊。
「犯罪王ポポネポ」
伝説の犯罪王ポポネポに捕まり、身代わりにされ、収監されることになった、悪事に一度も染めたことのない小市民マルキを主人公に据えた異色ノワール

ごっこ」「来世であいましょう」「かげふみさん」とこれまで同作者の作品を見てきたが、この作者の何が好きなのかなぁと考えてて、ふと、ある面白みに思い至った。
たぶん、この人の描く、異常な心理が面白いと感じてるんだろうなぁと。

そう思ってみると、異常が描かれているものが結構好きだなぁと。
それも、異常が異常たる所以、異常たる論理が描写されているものが好きなのだ。

例えば、「犯罪王ポポネポ」だと、悪事に手を染めたことのない主人公マルキも、監獄という舞台、周囲の犯罪者達でうめつくされた環境の中、その対比で一つの異常として描かれる。その過程で、生い立ち、思考回路等が語られるのだけど、その部分が面白いなと感じる。

バッカーノ!―The Rolling Bootlegs (電撃文庫)
紅 (紅シリーズ) (スーパーダッシュ文庫)
成田良悟さんのバッカーノ!とか片山憲太郎さんの「紅」電波的な彼女」とかも好きなのだけど、この作品でも異常が語られる。
バッカーノ!のヴィーノとかの思考回路とか面白い。自ら、不可能な事なんて無いと信じこむことで、作中の最強を背負い続けてるキャラ。
「紅」や「電波」はネジの外れ方はそこまででも、その心理とか思考のロジックが丁寧に描かれている。

悪役がやられる段になって、自分語りをしたりとかで、悪役が悪役になる過程を描く演出が、これは少年マンガとかでよく見られる。
あれを、罪を憎んで人を憎まずと言う様な主張と捉え、好悪が別れたりすることがあるらしいのだけど、僕は、単純に他人の頭の中を覗き込んでいるようで面白い。

なんにせよ、ポポネポ。
1巻最後の流れで、マルキが新たな異常性の萌芽を抱き始めてるところで終わってる。今後の異常の描写に期待したい。

【動画】「ニコ生思想地図第10回」を見て。

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 ニコ生思想地図10を見た。

 今回はニコニコ超会議に合わせ、出張版ということでひろゆき氏と対談。
 相手がひろゆき氏と言う事もあって、専門的な話をするでもなく、東氏もホストというよりもゲスト役的な感じで適当にやってた感じ。

 主に、インターネットの可能性をと言うことについて話してたんだけど、特に面白かった事。

・会場質問者の女性。
 トークテーマが10個あって、その中から互いに話したい話題をチョイスするというの流れだったんだけど、互いに、「別に……」な空気がながれ、結局、そのチョイスを会場に委ねると言う事になったんだけど、そこで、会場の一番前に居た女性が躍り出る。トークテーマを10個の中から選んでくれと言う振りに対し、曰く
「私はパソコン音痴である。だから、震災の際はツイッターで有用な情報が流れたと聞いても混乱していたのだが、結局どうだったのか?」と言う質問。
 テーマ、ガン無視の質問に対し、会場、ざわつくも、
 ひろゆき氏、東氏、ともに、
ツイッターってツールなんで、玉石混交っすよ。このメディアなら玉しかないなんてもんはなくて、それだけを求めるって思考停止の馬鹿がすることでしょ」と言うニュアンスでピシャリ。
 もちっと書けば、ネットワークには情報のネットワークと人のネットワークがあると。ソーシャルメディアはどちらかと言えば人を繋ぐメディアだから、そこに対し、正しい情報は!となる態度が前提を誤ってる考え方であるとしている。
 
 それに対し、女性負けない。
 正しい情報だけを求めると言うのは、ある意味後出しじゃんけんのみを欲しがるのと同じだ、という発言に対し。
「情報・歴史・正しい・と言う話をされていたと思うが、情報ってものは強いものが書き換えますよね?」と割りこむ。
「勝ったものが歴史を作りますね」とひろゆき氏。
「じゃあ、情報やネットがなくなるってことはありませんかね?逆に。これから、皆が楽しく生きてくために」と女性。
 この辺りで東氏は完全に対話を諦めてて、ひろゆき氏がなんとか拾う。
「「ここに水の入ったボトルがある」と言う事も情報なので、情報がなくなるって言葉としておかしいですよ?
「あぁ、そうですね。なんて言ったらいいんだろう、こう、メディアがなくなるとか〜」と、自身の考えを表現できない女性に対し、続けてひろゆき氏、
「過去、図書館や教会が情報を独占してた。一部の強権力が情報を握るということはあっても、情報やメディアがなくなるということは全然別の話で、何を聞いてるのか、よくわからないです!」で強引に話を突き飛ばし、女性、すごすごと退散。

 このくだりだけで、やっぱ、生放送面白いなぁと思ったのだけど、一体、あの女性の疑問は何だったんだろうかと言う疑問は残った。
 支離滅裂論理性皆無なのは確かなんだけど、話の飛躍のさせ方的に、自分の中での確固たる何かがあったんだろうとは思う。空気の読めなさとか、痛々しい感じとあわせて、何らかの活動に携わってる臭いがしたんだけど、なんだろう、単純にインターネットメディアの情報が世界を悪くするとか、そういう手合いの人だったんだろうか、と気になった。



 後は、一般意志2.0の話とかしてて、ひろゆき氏は普通に頭いいんだなぁ、と言う印象が強く残ったって感じ。

 一般意志2.0の話は、以前友人とした話がひろゆき氏のツッコミで出てて、国会とか生放送してそのツッコミをコメントで流し、議員の目に留まると言う方式で、密室の熟議という決定プロセスにルソー言うところの一般意志と言うものをぶつけることが出来るんじゃないかと物なのだけど、
 よくある反論として、ポピュリズムになりゃせんか、と言う意見に対しては、熟議の成員に一般意志というものの存在を意識させるのが目的で、迎合しなければ良い。決定はあくまで専門家が行う、としてるのだけど、僕友人で話した時や、今回ひろゆき氏から出た意見は、だれが見んの?そんなの?という事。
 そんな物にアクセスする関心を持ってる時点で、その熟議のインナーサークル的存在で、そのな人達からでは、熟議を開かれたものにする一般感覚に基づくツッコミなど出てこない。と言うもの。
 これに対し、東氏が最後はぐらかしていたのが残念。
 
 民主主義と言う原理原則に基づいて、と東氏は繰り返してたが、それはわかる。民主主義というスタイルを今のテクノロジーでやるんだったら、良かれ悪しかれ、とりあえずオープンに出来るものはしといたほうがベターっしょ。なのは同意。

 ただ、一方で民主主義ってどうなん感はどこまでもつきまとう。


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【詩】偏在的支配的

 僕らの真ん中にあるもの。それは魂の側に。極彩色に透明に。色とりどりに形を変えて、尖り丸まり伸びて行く。僕らの外っ側にあるもの。それは人の間に。グラグラと冷え込んで。膨らみながら、時に小さく。柔らかなふりして刺々しく。

 彼らの内燃機関

 僕らの外部記憶。

 産み落とし、繋ぎ、育て、前へと押し出す力。轟々と音を立てるわけでもなく、それはあまりに支配的に強権的に駆り立てる。

 涙の波を呼び、憎しみの深さはえぐられ、うがたれ、黒々として、そして晴れ、破顔は風を呼び、咲き乱れる花に諸行を魅せる。
 
 絆をつなぐ力。
 
 希望を打ち砕く力。

 僕とあなたの間に。彼と彼女の間に。僕と彼と彼女とあなたと、時には誰かとの間にも。誰と誰との間でも。例えば僕一人の中にでも。

 口を開けば生まれた。口を閉ざしても生まれた。
 
 僕らはそれで満たされた魂を。満たされたそれは飲み込んだ僕らを核にして。

 走りだす。生まれて描かれ紡がれ語られなぞられ、走りだす。

 物語。僕らを生むもの。僕らを形作るもの。

 世界の内燃機関。世界の外部記憶。世界の万象因果。 
 
 呪詛も福音も、全ては語られ、意を為して、費やされていく。

 物語の祈り。
 
 物語の呪い。
 
 そこに僕が居なくとも。そこに誰もいなくとも。カタカタとも、キリキリとも音を立てず。ただ生まれる。ただ潰える。なにもかもをも飲み込んで。何もないことすらも飲み込んで。


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【動画】「ニコ生思想地図第5回」を見て:物語の祝福 物語の呪い

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 ニコ生思想地図第5回「ばらばらな社会は経験を共有できるのか」と題して、オルタナティブなカルチャーにスポットを上げながらクラブミュージクなどを紹介する番組ドミューンをUSTで配信している「宇川直宏」さんとの対談。

 えーと、見てから時間が経ってるって言うのと、計4時間にも及ぶ長丁場な為、論点を絞りづらいという点で、何を語っていいやらなのだけど、個人的に気になったのは「物語」と言うキーワード。

 大学の授業に顔を出してきた時に、電子コミュニケーションと言うテーマの講義を聞いて、ゼミの恩師でもある先生が主張してたのは、ネット上のコミュニケーションツールで最も優れている可能性を持っているのは「2ちゃんねる」だと言う事。
 曰く、2ちゃんねるの優位性は神話と口承と言うキーワードで語れるそうな。
 それだけではいまいちピンと来なかったので、もうちっと突っ込んで聞いたら、コミュニティにおける物語の効果だ、と言う話を頂いた。

 そう物語。である。

 コミュニティにおける物語は、成員をコミュニティへと惹きつける役割を持つのだと思う。2ちゃんという匿名性の掲示板で、先生がその効用を神話と口承と表現したのはどういう意図かというのはまた別の機会に考察したいと思うのだけど、つまり、物語には人を惹きつける力があるのだと思う。

 ヒトと言う生き物は、集団で生きる、群れを作る生き物だ。だから、他人に気を遣う。他人に興味を示す。自分の中に他人を、他人の中に自分を見ざるを得ないのだと思う。
 人が人とが関係する時、そこに物語は生まれる。そこに物語がある時、人は、その物語を認識し消費し、そして判断を下す。肯定的か否定的か、それとも、無視するか、対応はそれぞれあろうが。

 東氏は対談において、フクシマを救うのには、そして日本を救うのには物語が必要だと語る。それはそのとおりだし、だけどそれには悲しい前提があって、今フクシマを福島でなくフクシマに貶めているのもまた物語であるという事実だ。

 物語は単なる力だと思う。それをどう使うか。
 
 でもかねてから感じていたのは物語の力が、僕らを強く縛っているなぁと言うこと。気づかない内に、僕らは内に物語を秘めている。
 いやもしかしたら物語の胃袋の中に居るのかもしれない。

 僕はもっと物語を意識して、距離をとったり、味方につけたり、あわよくば生み出したりコントロールしたり出来るようになりたいと思う。


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