【動画】「佐々木俊尚×田原総一朗×80年代生まれの若者4人”21世紀の生き方”」を聴いて。昨日迄の終わりと明日からの始まりの間に。

 さて、ツイッターではちょこちょこと呟き、ここで色んなアウトプットをしたいなぁと考えてるのだけど、どう考えても、自分のアウトプットの遅さ、集中力の無さでは実行できないだろうなぁ。
 新書とか読書のまとめ、感想とか、普段聞いてる人文系の様々な動画の文字起こし及びまとめ、とか考えてるのだけど。

 さて、本題。

 今回はとある動画を聴いて思ったことを。

 その動画とはこちら。

 http://www.ustream.tv/recorded/20899261/highlight/246980
 
 もしくは、その動画を文字起こししたものもあるので、そちらも紹介しておく。

 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32207

 佐々木俊尚をモデレーターとして、田原総一朗と、80年代生まれ。20代後半から30歳くらいまでの、ルームシェアをしながらノマド的人生を歩み、ネットを通じて新たな共同体、連帯を模索している若者たちとの座談会企画。
 
 終身雇用などの旧来の労働観が破壊され、それに応じて企業的連帯は崩壊した。年金を始めとする社会保障に明るい未来もなく、生涯未婚率も高まっている。
 そんなこれまでの連帯が消滅し、自らの身を支えるネットワークをあたらに模索しなければならない現代で、可能性を探り実践をしている方々と、田原総一朗が向き合う。

 4人登場している、若者代表の方々の簡単なプロフィール。

 慎さん。
 投資会社勤務で、平日の昼間や休日を使い、個人でNPO活動に勤しむ。
 NPO活動は、途上国に対して少額から募れるファンドを通してファイナンスを行い支援をする。また、国内では児童養護施設への寄付を募ったりしている。

 イケダハヤトさん。
 フリーのブロガー。執筆や講演のかたわら、ベンチャー等のスタートアップやマーケティングのコンサルを行う。
 NPO活動もあわせて行い。中間支援として、現場で頑張る組織などに、ネットワークを通じた広報などの方法論を教える等の活動をしているとのこと。

 西田さん。
 一人毛色が違い、アカデミズムの現場に居る方。立命館大学非常勤講師。「統治を想像する」等の編者でもあり、ネットワーク等を通じたボトムアップの公共の在り方を研究している方。

 高木さん。
 今回の座談会の会場ともなった、「トーキョーよるヒルズ」と言うシェアハウスの主催者。広告代理店博報堂を退社後、シェアハウスを主催。誰でも泊まりに来ていい、出入り自由の場を設け提供し、そこで生まれる様々な人間関係、イベントに関わりビジネスに参画しつつも、どの組織にも属さずニートであり続ける。ニートでありながら人間関係のハブ的存在として、新しい時代におけるロールモデルの存在を自らの身をもって実験、実践をしている方。

 さて、ここまでの紹介であらかた分かる通り、これまでの終身雇用はもちろん、一組織に属する、社会人として単独の肩書きで生きる、と言う在り方からは離れ、独自、または複数の活動を通して、人間関係を築き、その連帯を持ってして互助的公共とする新しい公共、中間共同体の模索をしている方々。

 ネットが可能にした、様々な人間関係や多様な働き方等を活かし、これからの時代にいち早く対応するノマドワーカーの在り方を座談会では肯定的に捉え話が進む。
 
 経済の低迷で金銭的に裕福ではなくなり、ましてや、人口減少、経済の停滞が予測される中、これまでの日本社会を支えた平等の中流が崩壊し、雇用や社会が個々人を守らなくなった時代に、ネットを活かし、人間関係の網を築く。そして、その中で利他的に振るまい、評価を得ることで自身に付加価値をつけていき、セーフティネットを築くと言う評価経済社会での在り方。
 また政治不信の行政不信、加えて、価値観の多様化等で、トップダウンの一元的な公共政策が取りこぼす人間が増えつつある昨今、これまたネットで細かくニーズとサプライをマッチングし、ほんとうに必要な活動、構造を自助的に構築しようという新しい公共の在り方の模索という話も飛び交った。

 この方々のやってることは素晴らしいことであり、自身の力で、特定の肩書きに縛られること無く日々の糧を得、特有の能力を社会に還元し、またそのことで社会から必要とされる等身の守り方を実践していらっしゃる。
 
 この種のノマド論で、よく出てくるのは弱者に目が向いていない、という指摘だ。後半そのことにも論が移るのだが、これまでの社会の在り方が崩壊し、その事で社会から溢れるようにして、生き方を見失った人間が多く出た。
 それはこれまでに社会で居場所を獲得してきた存在でなく、これから社会に居場所を見つけようとしていた若者が大半だった。
 就活難民など、まさにその象徴だ。
 そんな中、これまでの社会からあぶれでた弱者達がどう生きていくのかという問題。それは確かに重要で、「昨日までで駄目なら、明日からの在り方を模索しなければならない。」まさにそれを実践しているのが上記の方々なのだけれども、問題は彼らが弱者なのか、と言うことである。

 確かに、これまでの価値観が続かなくなったので、新たに道を探す羽目になったと言う境遇は、一時的に不利な境遇、過酷な境遇に立たされたといえる。
 しかし、彼らには能力があり、既に適者生存の道を開きつつある。
 投資会社や広告代理店に努められる。大学院を卒業し、すぐに講師のポジションを手にし、本を出版できる。フリーとして、執筆や講演、20代にして、各種コンサルを担える。こんな人間はおそらく一握りだろう。
 新たな公共の形と彼らは良い、ロールモデルを提示できればと言うが、そのロールモデルを実践できる人間がはたしてどの程度居るのだろうか。

 例を挙げて、高木さん。
 この方は、座談会中しばしば「自分みたいな宙ぶらりんの生き方でも」というような表現をされるが、額面通り受け取るにはかなり抵抗のある背景がある。
先に、就職難民という例を出したが、就職難の昨今にあって、高木さんが過去に在籍した「博報堂」に入社できる人間が、全就活生の何割居るだろうか。いや、何割というオーダーでは語り得ないだろう。ほんの、ほんの一握り。何十万分の一、という程の倍率ではないだろうか。
 そこに就職して、かつ自身の持つビジョンと会社の方針が違う事を理由に、退社し、現状はコネと能力を活かしたコピーライターの仕事で、月に1,2日の労働時間に対し、三十万円前後の報酬を手にしているという。
 そんな人間が放つ「僕がロールモデルに〜〜」と言う言葉に、誰が追従できると言うのか。
 類まれなる実力や運を持ってして、収入を得、会社や社会のしがらみから逃れて生きると言う事はこれまでも可能だったわけで、新しい時代の、それも支えの無い中不安にさいなまれつつ、新たに寄りかかる事のできる公共や連帯を求める人々に対し、このモデルはなんの参考にもならないと僕は思う。

 この点は、田原氏も言及しており、「この人たちは弱者のふりして強者だからね」と皮肉と示唆の混じった発言をしており、その通りだと思う。

 一言書き加えておくと、対話の中で「一日二日で30万」と発言してるのだが、文字起こしされた原稿では「30万」の数字は伏せられいる点も、この記事全体の示そうとしているベクトルに違和感を覚える点である。

 閑話休題。弱者のノマド論である。

 対話の後半、論もここに力点を置くようになる。

 繰り返しになるが、今までの生き方、利益構造からはじき出された人間たちは現状で、居場所を獲得しておらず、社会的には弱者と呼べるからだ。

 今回の4名の方々の様な、恐らく、これまでの価値観の中でも成功できただあろう、そしてそれが時代背景に応じて、現代においてたまたま異なる強者のモデルを実践している方々の様なモデルははたして、今まだ弱者の立場に居る人間にとって実現可能なものなのだろうか。
 そして、そのモデルは、これまで、中流と呼ばれる、多くの人間が、こぼれることなく乗ることのできた利益構造に対し、どれだけ多くの人間を支え、かつ長期間においてサステナブルであれるのだろうか。
 それは時代の審判を待たねばいけない問題ではあろうが、恐らく普遍的かつサステナブルではないだろう。
 対話の中でもそれについての示唆はされている。曰く、テクノロジーの発展によってこのようなロールモデルが支えることのできる人間の数は増やせるだろうが、それにも限界がある、と。
 
 そして、こう続く。

 しかし、はたして、そこからもこぼれてしまうような人間についての言及。対話の中の佐々木氏の発言を借りれば「自らまったく努力をしないで自分のやりたいことまで見つからないという人まで、果たして包摂する必要があるのか」という問題がある、と。
 田原氏は「それじゃヒトラーだよ」と返し、佐々木氏も「そうなんです。国家社会主義になってしまう」として、包摂の必要性について範囲を限定する事を肯定するような態度を示している。

 この問題について、個人的に二つの見解があり、一つは僕の抱く哲学に深く基づくものなので、今回はその見地からは言及しない。
 もう一方の知見から反論を述べる、というか、ここから今回の僕が伝えたい主題になる。

 佐々木氏の言葉をもう一度借り、表現を変えてみたいと思う。「自らまったく努力をしないで自分のやりたいことまで見つからないという人」はつまり「なんとなく生きている」と言い換えられるだろう。
 そして、「なんとなく生きている人」まで、あまねく掬い取れるような、糧を与え安心を与えられるような利益構造、別の表現をすれば、生き方、幻想、当たり前の幸せ、と言ったものを模索する必要があるのか。ないしは、模索出来るのか。
 確かに、それは出来ないのかもしれない。しかし、過去、日本は、一億総中流と言う言葉の基にそれが出来ていたのではないだろうか。
 無論、その言葉、その構造に、包摂されてこなかった、社会が目を向けてこなかった存在がある事は否定しない。
 ただ、経済成長と終身雇用の傘の下で「なんとなく生きていく事」はこれまでの日本で可能だった、すくなくともそう信じていられた事は事実であろう。

 その傘が壊れたとされているのが現代だ。傘がなく雨露をしのげないのが、非正規雇用で安定しない明日におびえる若者であり、就職と言う社会に否定され自殺を選ぶ若者だ。  
 傘が壊れた。雨が降っている。
 ならば新しい傘を探さなければいけない。雨も強くなっている中で今度は、みんながみんな入ることのできる傘は探せないかもしれない。新しい傘の中に入っているためには、努力が求められる。勉強が求められる。なんとなくでは入ってはいられない。
 そういった議論が重ねられる。実践をしている人がいる。昨日は終わったのだから、明日に向かわなければいけない。

 それはわかるのだけど、昨日と明日の狭間で、傘が壊れてしまった事を悲しむ。傘が壊されてしまった事を怒る。新しい傘が、これまでの傘と違い、重く小さいのを嘆く。
 そんな感情が、行き場を失っているように思う。僕はそのことが非常に腑に落ちない。悔しい。納得がいかない。
 
 この感情を何処にぶつければ良いのか。原動力に変える、と言うが正解だろう。賢い人は、そんなのいいからとりあえず、新しい傘に対応すべく動くべきだと言うかもしれない。それはとても、強くて、正しい言葉なのだけども。なんとなくは、もう許されないのだけども。
 だけど、僕らはなんとなく、納得がいかないし、なんとなく前向きになれないのだ。これまで、なんとなくは許されてきたのだから。

 当たり前だったものが当たり前でなくなる時に、僕らは居る。誰も受け止めてくれない、悲しみや、怒りや、悔しさを抱えたまま。 

 
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【ネット】境界線無き文化圏の覇権。ひろゆき神話の呪い。

 以前のエントリーで書いた話。ネットコミュニティにおける2ちゃんねるの有用性について。
 大学の授業で、適当にコメントするよう先生に仰せつかって、考えをまとめようと思ってたのだけど、筆不精がたたって前日になってしまった。

 前段のエントリーはこちら。
 http://d.hatena.ne.jp/tkyoukey2/20120601/1338560835

 先生は、2ちゃんねる擁護的な立場の方なので、あえて、反2ちゃん派の立場でいろいろ物を考えたのだけど、その参考になる知見を得たのがこの動画。
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 2ちゃんねるが内包する構造が、コミュニティを形成すること。そして、そこで行われる特定の文脈に沿った発言が、これまでの既定の枠に囚われない柔軟で新鮮な文化を生み出すという点において、先生の言う「神話」と「口承」的なコミュニケーションは強い機能を有しているのは事実だと思う。
 その上で、2ちゃんねるの神話が生み出した弊害が、根強くネットの社会、ネットの中でのコミュニケーションに影を差してはいないだろうかと感じる。

 2ちゃんねるが生み出した神話、2ちゃんねらーがすがる神話。それはひろゆきを偶像とする神話だと個人的に思う。「嘘を嘘を見抜けない人間に」に始まり、斜に構え、何事もネタ的な解釈で分解するというメンタリティがひろゆきから神話へと受け継がれ、そのマインドは2ちゃんねるを席巻し、そして、ネットの境界線が存在しないと言う特性を生かし、他のネット文化圏にも少なからず影響を及ぼしている。

 加えてもう一つ、前述の特性、何事をもネタにし貪欲に消化していくという傾向が、集団性と匿名性が助長すると思われる暴力性と、相まることで生み出されたの「祭り」「炎上」という行為がある。
 これも、2ちゃんねるの負の影響の一つであろう。

 ここからは以前のエントリーの援用だが、
『実社会の問題はどこまで行っても不可避で直視しなればならない問題だ。そこに対し、これまでのネットの文化は、一定の意見を呈す程度にしか効果を発揮できない側面があった。どこまで行こうとも、責任を逃れる仕組みが機能していたからだ。
 Facebookに存在する私は、確かに何処かに暮らし、何処かで勤める、存在のある私でしかありえない。そういう私でなければ、新たな可能性をネットに見ようとするアーキテクチャで。その可能性は、これまでのネット文化との比較で是非を論じるべきものではないと僕は思う。』
 という事を僕は考えている。

 実社会における様々な諸問題にポジティブに働きかけることのできるツール。雑多で煩雑な手続きを簡便にするツール。ネットの活躍の場はこれからも広がっていくし、そうでなければならないとも思う。その為には2ちゃんねるのマインド、その強固なマインドを生み出す、アーキテクチャ(集団性、匿名性、ひろゆき神)が弊害として立ちはだかる事もあるだろう。

民度」という言葉はあまり使いたくないのだけども、集団で生み出された力は、社会正義等に向くわけでもなく、ある種の弱い者いじめのような構造に向けられている現状だ。
 ネットにおける言説、文化に、もっと公共性が担保されている物が必要ではないかと思う。
 そのために必要な事はリテラシーを充分に備え、公共心を備えたユーザーを涵養していくべきか。それが出来るに越したことは無いのだけれども、個人的にはそれは難しいだろうと考える。誰がどういう責任を持って何を正しさとして旗を振るか、それは単純な問題では納まらないだろう。
 で、あれば、あとはアーキテクチャ的なアプローチの可能性という事になる。

 Facebookの実名、そして、社会的な関係性をオープンにしたうえでのコミュニケーションはそういった可能性を背負ってるのではないかと思う。2ちゃんねるのようなどぎつい言葉も、時に違法スレスレの言葉も、そこでは流通しない。例えしたとしても、コミュニティが排斥するだろう。
 今までの2ちゃんねる文化に、いや、これまでの多様なネットのコミュニケーションに慣れ親しんだ人間にとって、それはかなり息苦しい文化だ。肩肘を張った文化だ。
 しかし、ネットの言説が、現実のそれと比肩して低きに見られる現状の価値観を払拭するためにはそれくらいの荒療治は必要でないかと思う。
 この自体社会が抱える諸問題はあまりに多く、困難なものばかりだ。それに対し、政治もメディアも硬直し、ブレイクスルーは期待できない。

 ネットの柔軟性、多様性、情報の可視化、ビックデータの分析。社会はネットを介して、ネットは社会を背負って、共に変わっていくべきだ。
 その変化は何も、古き文化の終焉を意味しない。新しい在り方を取り込んで、ネットは進化すればいいのだ。その為にも、ツールを使う我々がその変化に敏感でなければならない。


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【ネット】「違法ダウンロード刑事罰化を受けてMIAUの反対声明」を読んで。

 二日くらい前に、TLで目にした話題。
 音楽著作権等の問題でかねてから懸案事項だった違法ダウンロードがいよいよ本格的に取り締まられるんじゃないかという動きがココに来て活発になってるらしい。

 著作権法改案として、自公が議員立法の形で提出するという法案に対し、インターネットユーザー協会MIAUがちょっとそれアレじゃね、と。
 

 で細かな記事が上載のモノ。
 元記事はこちら。http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1206/05/news069.html

 これを見て、正直苦しいなぁ、と。
 子どもが自信の行為の違法性を知らないままに取締の対象になってしまうのはイカンだろうと言う趣旨の声明文で、事実それはそうなんだけど、違法ダウンロードがイケないのは変わりなくて、刑事罰化しない限り効果を発揮しない現状はほっといていいもんでないのは明らかだろう、と。
 
 この法案の提出の経緯で、手続き上強引であるとか、一概に括るのは良くないとか、そういった反論で何時まで経っても本当に悪い奴の迷惑が取り締まれないというのも、なんか、逆クレーマーみたいな感じで、一人の馬鹿のために規制ができる。一人の自由厨の為に、取り締まるべきものを取り締まれない、みたいな構造に見えて仕方がない。

 MIAUが変な団体だったり、自由を履き違えて権利侵害を正当化する様な団体でないことは知ってるし、この手の規制問題で根負けして、政府や頭のお固い連中が唱える雁字搦めを呑んじゃ駄目なこともわかってるんだが、なんか、悪あがきの臭いもしないでもないのは、延々と水掛け論を続け、双方の立場で意固地になっている表現規制問題を見ているからだと思う。

 以前のエントリーで書いたが、自らの立場を省みてまず、双方が同意できる一番の問題を踏まえつつと言う様な折衷案を語るにはどうしたらいいのか。
 こちらが、折れれば、向こうは、それ未だと一気呵成に規制の鎖を持ち出すような気もする、根負けをしないで戦い続けるしか無いのか。

 追記
 この手の議論で、ネット側の言説に与したくないといつも僕が感じるのは、ネットの側に理が無いからとかでなく、ネットに居ると見えてくる立場が一義的になりがちで天邪鬼な僕はそれを素直に受け止め難いからと言うのも無くはないけど、なにより、ステレオタイプ的に規制側や権力側を批判して思考停止する輩がネットに多いからなのだと思う。
 そういうのを嫌うばっかりに、安易にMIAUの行動を批判する様な文面を書いた自分も別種のステレオタイプになってるなと思い至ったので、追記の場で自省を記しておく。

【小説】「苦役列車/西村賢太」低めのボールを投げるということ。

 6月の読書は期せずして、文学系が多かった。円城塔の「オブ・ザ・ベースボール」に始まり、西村賢太の「苦役列車」。そして、阿部和重の「インディヴィジュアル・プロジェクション」。
 どれも、ここで、語るに足る、刺激を孕んでいたのだけど、とりあえず、僕が抱える問題意識の中で、根っこが深い奴に当たった作品ということで、「苦役列車」を挙げたい。

 苦役列車、である。

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 芥川賞の受賞でも話題になったこの作品は、著者である西村賢太氏の私小説でもあり、貧困と自身の鬱屈さに、翻弄されながら日雇いの仕事で糊口を凌ぐ青年「北町貫多」の日常を通して語られる。
 元来、コミュニケーションが不器用だった貫多は、小学校の時に、父親が性犯罪で逮捕されるという事件を経て、周りのコミュニティから排斥されるようになってしまい、また、自身のアイデンティティに父親の様な悪しき意識が根付いてるのではと言う恐怖感から卑屈さを抱え込むようになってしまう。
 そこで獲得してしまった卑屈さを抱えて行くのかとおもいきや、他者と交わることも出来ない故に肥大してしまった自己承認欲求も同時に抱えることとなり、卑屈で尊大で他者との距離感を巧くつかめないキャラクター「北町貫多」が出来上がったと、筆者西村賢太は自己を分析し描いている。

 このキャラクター、作中では、いわゆる「駄目人間」として描かれている。正規のルート、教養と愛情を受けることが出来ずに育った人格として、貫多は存在するのだけど、そこに愛惜や憎悪の様なものはあまり投射されていない。不幸な境遇ではあるはずだし、事実そうなってしまった因に貫多の責は無いのだけど、そこを訴えることはせず、不器用な貫多のダメさと、それゆえに生まれる愛嬌、そして、読者のコンプレックスをくすぐるようにこの作品は描かれている。

 その描かれ方は、ひとえに「人間失格」だと個人的には感じた。歪な自意識の発露を若干の憐憫さをもって描き笑いと共感を誘う、と言う。
 そういう自己を形成してしまう危険の多き現代社会と言うテーゼがあるようにも感じなかったので、まぁ、とは言っても、貧困や格差の固定化、親の経済状態や教養による子どもへの影響と言った問題を読み取れなくはないが、とかく、この作品の面白さはそこには無い。
 そういった、現代社会特有の病理にフォーカスしていないと言う意味でも、やはり人間失格なのである。
 もちろん、露悪の匙加減が巧妙でなければ、汚らしくジメジメとけったいな文章になるわけで、その点、西村賢太氏は筆力のある方なのだと思う。
 
 僕が感じたのはこの作品への問題は、経済的にも人間関係的にも(その二つは相互触媒なのだけれども)社会の底辺で煩悶する青年の喘ぎの様なものを、叫び照らしだすのではなく、そこを笑い、興味深い、味深い、と言った回路で消費してる点にある。

 太宰が、そして西村賢太氏が描こうとした、自意識の歪さや、そこから生まれるままならなさと言うのは、大小あれど、人が皆持っているものだと思う。
 そして、そのままならなさが大きすぎて圧し潰されてしまいそうな、生きるか死ぬかと言う悩みにまで肥大させてしまってる人が、恐らく居る。
 その人に、この作品は届かないのではないか。

 この悩みは、物語の効果、射程。と言った問題系として絶えず僕の中にある。

 絶望を物語はどう描くか。絶望から物語でどう救うか。

 西村賢太氏は、自身がそういった底辺に居た方だ。無論ご自身が、居た場所を底辺と感じているかは別だが、少なくとも、私小説のような形でそれを底辺の様に描いている。そして、それを文学に、エンターテインメントに、変換され、金銭と名誉を生み出した。

 西村賢太氏のやり方が間違っている訳ではない。それはそれで、同じような境遇に居る人の希望になるかもしれないし、北町貫多よりも社会的に恵まれながらも、自意識に悩む人に「さげすみ」の感情を想起させ、バランスを取る一助としての機能も有していると思う。
 それはそれで物語の効用で素晴らしいことだと思う。

 しかし、自意識を軽妙な露悪さをもってユーモラスに語れない、文学的素養を持ちあわせておらず、這い上がるための糸に手が届かない、多くの「北町貫多」にとっては、この作品はより深い絶望を喚起する物でしか無いのではないかと、どうしても思ってしまう。
 
 最底辺。物語にすることで相対化すると言う光すら届かない、深い深い闇の領域を物語はどう描くのか。描けないのか。

 明るさを描いた作品には、こういったことを感じない。そもそも世界が違うと思ってしまうから。でも、暗さを描いた作品にはどうしても、その光の届かない世界をなんとかする責任というか役割みたいのを期待してしまう。
 そんな思いを新たにした作品だった。


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【エッセイ】「ネットの中の私はどこの私か」粉川一郎(武蔵大学 社会学部メディア社会学科 教授)を読んで。

 まずは、はじめにリンクを貼っておく、表題のエッセイで、僕が大学時代お世話になったゼミの先生が寄稿したモノ。
 http://japan.cnet.com/news/society/35017262/

 以前、大学へお邪魔し、その後もツイッターで何度か「2ちゃんねる」についての話を伺ったのだけど、それも含めた現状のネット上でのコミュニケーションの概論を論じたもの。

 簡潔にまとめれば、黎明期のボランタリーで脱パーソナル的、コンテンツ重視のコミュニケーションから始まったネット上のコミュニティの在り方は、ブログやmixiと言った連続した一つのパーソナル(実在か架空は問わず)が前面に押し出されるものへと形を変えていき、Facebookはそのパーソナルから架空のものを排除する形を取ろうとしている。そんなネット上のコミュニケーションの在り方の変化に、著者は古くからのネットユーザーとして一定の違和感を覚えつつも、懐古主義だけに依ることなく、その意義を問う必要性を語っているエッセイとなっている。

 前段として、僕が、この教授に話を伺った時、2ちゃんねるの有用性は、神話と口承、もう少し簡単に言えば、コミュニティにおける物語の機能で語ることが出来ると言っていて、それを僕はどう咀嚼したもんかと、一時煩悶としていた。

 して、その心は、と言う僕の見解はこうだ。
 まず、2ちゃんねるにおける「神話」と「口承」とは何か。それは作者不在で、語ることがそのまま物語ることに繋がると言う物語と伝播の構造を示しているのだと思う。
 次に、コミュニティにおける物語の機能である。
 物語のコミュニティにおける機能とは、コミュニティと言う存在を規定する機能であると言える。同一の物語が共有されている範囲が、ひとつのコミュニティであり、その中の成員は皆がひとつの物語を共有している。それぞれ逆を返せば、物語無きコミュニティはコミュティ足り得ず、物語にかかわらない存在はそのコミュニティの成員足り得ないのである。
 2ちゃんねるは基本的には匿名の書き込みの集合であり、その集合から、特有の言語やノリが生まれる。それらが繰り替えしコピペされることにより、広まり、徐々に改変されていく。その過程で文化や空気を生み出す。その無形の集合こそが、2ちゃんねるにおける作者不在の神話なのであり、それを解し、また使うことのできる人間こそが、神話を語り、聞く人々、すなわちその文化の担い手たるコミュニティの成員、2ちゃんねらーとなるのだ。

 この見解が正しいか否かは、先生のエッセイの文中にも記載がある。大まかには外れていないのかな、と感じているのだが、ただ、この見解はあくまで、2ちゃんねるにおけるにコミュニケーションの在り方であり、その在り方が「良い」かどうかを語る射程は持ち合わせていない。

 エッセイの著者である先生は、一古参ネットユーザーとして、Facebookのようなパブリックなパーソナルを強要されるコミュニケーションに一定の違和感を呈してる。しかし、ここで注意が必要なのは、先生が述べているのは「嫌い」であり、「悪い」では無いということだ。
 一ユーザーの立場から、好悪を語りつつも、あくまでこのエッセイの主眼は、変容とそれぞれの有り様の意義である。
 先生が僕自身に向けて言った「良い」は、おそらく多分に、この「好き」が含まれつつ、ネットのコミュニケーションに一定の目的を課すのであればと言う限定が含まれるだろう。

 この時、ネットのコミュニケーションが何をもってして「良い」とするのか、と言う観点を明確にすることが必要になる。先に書いた、2ちゃんねるの機能についても、そういう構造を持ち機能する、と言う話で、それが何にとって、どう良いか、と言う視点がなければ是非は語れない。

 僕はFacebookを、社会のネット化だと捉えている。
 ネットは人と人が繋がるから、そこに社会が生まれるのは当然なんだけど、これまでは大きな実生活の社会と言うものがあって、その大きな社会の中に、ネットをする人による、ネットユーザー同士の文化圏とでも呼べる繋がりが小さな社会として機能していたという構造だった。
 それは、インターネット通信からの連続であり、2ちゃんであり、mixiであった。そこは実社会の中に組み込まれながらも、隔絶も可能なコミュニケーションの場であり、当然、そこのコミュニケーションにあたって、人は現実の自分でありながら架空の自分であることも出来る、ハイブリッドなネット人格とも呼べるものを構築できた。

 それはコミュニケーションの拡張であり、自己の可能性の探求でもあった。また端的に息抜きの場でもあり、各種のしがらみにまみれた実社会とは別の文脈で新たな文化の生まれる温床足りえた。

 重ねて言うが、Facebookはその構造から脱し、社会のネット化として機能しようとしているのではないか。社会の中の一クラスタであったネット社会という役割を終え、人と人とが、連続性の保たれた責任を持つ個同士として不可避に接し、互いの利害を折衝すると言う社会そのものを、ネットの世界で再構築しているのではないか、と言うことだ。
 実社会で、人はHNで名乗らない。その人間が誰かがわからなければ、不可避な自分の実生活で利害を共にする人間として信頼されないからだ。
 そこには、しがらみがある。だからこそ、これまでのコミュニケーションにあった気楽さや、くだらないノリの中でしか生まれ得なかった文化はその芽を見ない。しかし、実名の信頼に足る相手同士だからこそ手を取り合えるビジネスや社会活動と言う物もまたある。責任が生じるからこそ、そして、実社会と違い、履歴が残り、関係性が可視化されるからこそ、そこでは、公共心を持って活動することを余儀なくされるからだ。

 それは、これまでのネットが生み出せなかった文化だ。
 実社会の問題はどこまで行っても不可避で直視しなればならない問題だ。そこに対し、これまでのネットの文化は、一定の意見を呈す程度にしか効果を発揮できない側面があった。どこまで行こうとも、責任を逃れる仕組みが機能していたからだ。
 Facebookに存在する私は、確かに何処かに暮らし、何処かで勤める、存在のある私でしか無い。そういう私でなければ、新たな可能性をネットに見ようとするアーキテクチャで存在する価値はない。その可能性は、これまでのネット文化との比較で是非を論じるべきものではないと僕は思う。

 論じるべきは社会構造そのものをネットで息づかせることが出来るのか。と言ったことではなく、それに対し、忌避感を感じてしまう人々の意識をどう変え、関係性を効率的に拡張的に構築していけるかと言う事なのではないかと思う。


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インタラクティブな講義。

 大学時代、三年四年とゼミでお世話になった先生に以前会いに行った。勤務日数の関係で平日に休みがとれたから、練馬くんだりまで、足を伸ばして。といっても電車で二五分位だけど。
 その教授はネットのコミュニケーションとかを専門にやっていて、授業の話を聞かせて貰ったのだけど、すごく先鋭的なスタイルの授業を実践してた。
 それは、授業中にツイッターを推奨すると言うモノ。先生のパソコンが教室のスクリーンにつながれていて、そこには受講してる学生のツイートが、授業用のハッシュタグのもとにスクリーンに投影される。
 講義の感想、疑問、質問、関心等がリアルタイムで共有され、時に先生もそれを見て、話の舵を切ったり掘り下げたり、と、ネットのコミュニケーションをリアルの講義に融合させた新しい試み。
 
 はじめに聞いた時の印象は、ニコ生だなぁ、と。最近、ニコ生とかustとかの対談とかシンポジウムとかを聴いてるからまずはそれを思い浮かべた。
 大学なんかの大人数の授業って、中々一人の質問や疑問を丁寧に拾うことが出来ないし、インタラクティブ性はコメントペーパー位のものだった。タダでさえ、日本の学生(学生に限った話ではないと思うけど)の風土があって、目立つことを良しとしない、真面目な前向きさを良しとしない空気の中にあって、質問や意見を積極的にするなんて光景は、ゼミや少人数ディベート型の特講とかでもない限りまぁ見られない。
 講義、というものに対して、パッシブであるかアクティブであるかは理解や興味の広がりに大きく寄与すると思う。
 手を上げて、衆目の前で自らの意見を言わなければならないと言うハードルをツールで解決し、授業のインタラクティブ性を高めるという試みは、機能すれば面白いなぁと思う限り。

 で、その授業の場でかはわからないけど、もしかしたら、その先生からムチャ振りされて、学生の前で喋ることになるかもしれない。
 
 今後は、何回かに分けて、喋るとしたら、自分の中にどういう引き出しがあって、どう整理出来るのかと言うことをこの場で考えたいなぁとか。


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